アタキ
8月 11, 2019ルーマニア語でブコヴィナ地方の北部は「チェルノフツィ」、南部は「スチャバ」と呼ばれる。ブコヴィナ地方の名前の由来はドイツ語の“Buchenland”(ブヘンランド=ブナの木の国)という言葉だ。この名前は1392年に文書で初めて使われ、1775年に公式の名前となった。ブコヴィナ地方は1918年にハプスブルク帝国に併合された。
地理的にブコヴィナ地方はルーマニアの北部を含め、チェルノフツィまで広がる地方で、カルパチア山脈の北部とスチャバ高原の風景が楽しめる。ブコヴィナ地方はたくさんの川が通っている。現在は村や町の発展により、ブナの木は殆ど見られなくなった。しかし、ブコヴィナ地方を観光する方は、森や綺麗な泉、羊の群などに魅了される。
ブコヴィナ地方には、ルーマニア人やドイツ人、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ人などさまざまな民族が暮らしており、多様性が特徴となっている。
ブコヴィナ地方の歴史
ブコヴィナ地方は3世紀のころ、ダキア公国の一部であったが、遊牧民のフン人によく攻撃された。
14世紀からモルドバ公国の中核都市となった後、“Ţara de Sus”(ツァラ・デ・スス=上部の国)と名称が変更された。ブコヴィナ地方はモルドバ公国の文化的にもっとも重要な地方として発展したが、1574年に首都がスチャバからヤシに代わった後は、発展しなくなった。
1774年までブコヴィナ地方はモルドバ公国の一部であったが、その年に、ハプスブルク家のものになった。1918年のオーストリア帝国の解体後、ブコヴィナ地方とルーマニアは統一した。ブコヴィナ地方で暮らしていたユダヤ人は第二次世界大戦でほとんど殺されたとの歴史が残っている。
ルーマニアは1940年に条約により、ソビエト連邦にブコヴィナ地方を譲り渡した。第二次世界大戦のころ、ルーマニア軍はブコヴィナ地方を再び占領したが、1944年に赤軍によってソビエト連邦に再び支配された。ルーマニアは1947年のパリ条約により、ブコヴィナ地方をソビエト連邦から譲り受けた。
ブコヴィナ地方の習慣
- 例えば、イースターエッグはブコヴィナ地方の古い習慣の一つだ。イースターエッグ
は女性によって染められていたが、現在は男性や子供でも楽しめる習慣だ。イースターエッグを染めたい人は、ブコヴィナ地方で地元の人々から習うチャンスがある。イースターエッグは絵付けなど細かい作業があるため、初めての人にとっては忍耐力が必要だ。 - 織物もブコヴィナ地方の伝統的な作品だ。ブコヴィナ地方の人々はウールなどの自然素材を使ってオリジナルの模様の絨毯を織る。ウールを染めるための染料も自然素材で作られている。
- マルジネアの黒い陶磁器も世界的に有名だ。この真っ黒の陶磁器は、土壌のミネラルと特別な焼き方で作られる珍しいもので、古代に誕生したと言われている。
- ブコヴィナ地方の冬の習慣も現代に引き継がれている。伝統的な面をつけた人の踊りなど、その地方特有の習慣が感じられる。雪の上で馬が引っ張るソリに乗ることも一生忘れられない体験となる。
ブコヴィナ地方の壁画のある修道院
ブコヴィナ地方の壁画のある修道院は統治者と貴族の命令によって建立されたものだ。ヴォロネツ修道院は青、モルドヴィツァ修道院は黄土、フモール修道院は赤、アルボレ修道院は緑など、各修道院は特別な色の背景をしている。
ヴォロネツ修道院
ユネスコ世界遺産に登録されているヴォロネツ修道院は、1488年にシュテファン大公の命令によって建立された。この修道院はトルコ人との戦いの勝利の記念碑として4か月ほどで建立されたものだ。修道院の中には、世捨て人のダニエルやグリゴリエ・ロシュカなど、歴史的に有名な人物が埋葬されている。
ヴォロネツ修道院の敷地内には一つの学校もあったようだ。この学校では、「ヴォロネツの記録」と「ヴォロネツの讃美歌」という本が書かれた。現在、この2冊の本はルーマニア・アカデミーに保管されている。
ヴォロネツ修道院は独特な青で塗られており、壁画のある修道院の中でもっとも有名だ。この壁画は1547年に描かれたものだ。修道院の建築様式はゴシック様式だ。司教であったロシュカはヴォロネツ修道院の西側の壁に壁画を描こうとしていたため、この壁にはドアや窓などが作られていない。北側の壁には現在でも当時のままの装飾が残っている。
1774年にブコヴィナ地方はハプスブルク家のものになり、ヴォロネツ修道院も閉鎖された。1991年に再び使われるようになり、ユネスコ世界遺産に登録された。ヴォロネツ修道院の壁画は繊細で、最後の審判など聖書のシーンが描かれている。
モルドヴィツァ修道院
ユネスコ世界遺産に登録されているモルドヴィツァ修道院はヴァトラ・モルドヴィツェイに位置する正教の修道院だ。この修道院はシュテファン大公の息子であったペトル・ラレシュ公の命令によって1532年に避難場所として建立された修道院だ。
シュテファン大公は1457~1504年の間、モルドバ公国を統治し、オスマン帝国と36回戦った。36回の戦いの中で34回勝利し、それを記念するために修道院を建立した。
ペトル・ラレシュ公は1527~1538年と1541~1546年に渡り、モルドバ公国を統治した。父であるシュテファン大公によって建立された修道院を含め、修道院と教会を改装し、外壁に壁画を描いた。
モルドヴィツァ修道院の壁画は1537年にスチャバ出身の画家であったトマによって描かれた。この修道院に描かれた主なシーンは「エッセイの木」や「コンスタンティノープルの包囲」、「諸聖人の連祷」、「最後の審判」などだ。モルドヴィツァ修道院には、開いているポーチと地下室、ゴシック様式のドアと窓がある。
スチェヴィツァ修道院
ユネスコ世界遺産に登録されているスチェヴィツァ修道院はスチェヴィツァ川の近く、ルーマニアの北東に位置する正教の修道院だ。この修道院は1585年に貴族であったイェレミア・モヴィラ公の命令によって建立された。建築様式はビザンチンとゴシックの特徴がある。
修道院の外壁と内壁には新約のシーンが描かれている。壁画のある修道院の中で一番新しく、1601年に描かれた。壁画の中でもっとも魅力的な作品は「貞操の梯子」だ。この壁画には赤い羽をしている天使が描かれ、修道院の南側の壁には「エッセイの木」が描かれている。
修道院の中庭は1万㎡の四角い庭だ。避難場所の役割もあったため、丈夫な城壁と4つの塔を設けている。現在、城壁の中には博物館がある。イェレミア・モヴィラ公とシミオン・モヴィラのお墓に置かれた「銀の糸で刺繍された生地」と「教会の本」はスチェヴィツァ修道の大きな見どころとなっている。
フモール修道院
ユネスコ世界遺産に登録されているフモール修道院はグラ・フモールルイから約5km離れた場所に位置する。フモール修道院は1530年にペトル・ラレシュ公の命令によって建立され、守り主は聖母マリアとなっている。壁画のある修道院の中でも古い修道院の一つだ。フモール修道院1786~1990年の間、閉鎖された。
壁画の背景の色は赤っぽい茶色だ。フモール修道院はモルドヴィツァ修道院と同じスチャバ出身の画家であったトマによって描かれた。外壁の主なシーンは「コンスタンティノープルの包囲」と「最後の審判」だ。この修道院の中にはペトル・ラレシュ公とトアデル・ブブヨグ将軍、彼の奥さんが埋葬された。
この修道院には長い間「フーモルの伝道」という聖なる本があった。この本は修道士であった二コディムによって描かれ、シュテファン大公の肖像もある本だ。
アルボレ修道院
アルボレ修道院は壁画のある修道院の中で最初に世界遺産として登録された修道院だ。守り主は洗礼者のヨハネだ。長方形の形をし、地元で採掘された石で建立された。アルボレ修道院は1503年に貴族であったアルボレの命令によって5か月で建立された。
壁画は1541年に画家のドラゴシュ・コマンによって描かれた。もっとも良好な
壁画は南と西の壁に描かれたものだ。主なシーンは「コンスタンティノープルの包囲」や「最後の審判」「放蕩息子」などだ。コサック部隊に教会の屋根が破壊されたため、北側の壁画は殆ど消えてしまった。元の屋根は鉛でできていた。
教会の拝廊にはアルボレと彼の家族が埋葬されている。教会の中には珍しく二つの奉納絵画がある。二つの奉納絵画が描かれた理由は知られていないが、アルボレの家族を全員描くためだと思われる。しかし、二つの奉納絵画があるのにもかかわらず描かれていない子供たちもいる。
教会の外には穴が空いている大きな石が発見された。その石は壁画の絵具を混ぜるために使われた道具だと思われる。
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